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復活祭
2007年4月8日 松岡俊一郎(牧師)
復活の主はどこに
出エジプト15:1-11 Iコリント15:21-28 ルカ24:1-12
婦人たちは動揺を隠しきれませんでした。あるはずのものがない。それも絶対に自ら動くはずのないものがない。それがないとしたら、誰かが持ち去った以外には考えられないのです。十字架にかかり死なれたイエス様の墓は、大きな石で塞がれていたはずです。その石が脇に転がされているとすると、誰かが動かして、中の遺体を持ち去ったに違いないのです。イエス様が亡くなられたときは、ユダヤ教の安息日に入る時刻でした。安息日には働きが禁じられていました。そのためにイエス様は十分な処置ができずに葬られたのです。そのことが気がかりだった婦人たちは、安息日が空けた土曜日の日没には出かけることができず、その翌朝の日曜日の朝早くに、香料を持って墓に向かったのでした。ところが墓を塞いでいた大きな石は動かされ、イエス様の体はなくなっていたのです。彼女たちが途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れたのです。遺体がなくなるというだけでショックな上に、普通ではない人が目の前に現れたのです。婦人たちはどんなにか恐れたことでしょう。
恐れおののく婦人たちに二人の人は声をかけます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。ここにはおられない。復活なさったのだ。」印象的な言葉です。死んだはずの方を、生きておられる方というのですから。二人の人は、婦人たちの理解を助けるために、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と促しました。婦人たちは、イエス様の言葉を思い出し、まだまだ半信半疑ではあったと思いますが、イエス様の復活を受け止めたのです。もはや墓にとどまる理由はありません。彼女たちは家に帰り、他の弟子たちに一部始終を知らせたのです。ところがイエス様のより近くにいた十一人の弟子たち、他の弟子たちはそれを信じることができませんでした。死んだ人が復活するなどとは、普通では考えられないからです。
私たちの常識では、死んだ人が生き返ることはありません。これは私たちの絶対です。しかし、神様は人の絶対を覆されます。人の命が有限であるように、人の絶対は閉ざされています。しかし神様の絶対は永遠へと開かれています。人の絶対を信じることから、神様の絶対を信じることに転換すること、それが信仰であり、キリストのいのちをいただくことです。
神様は御子イエス・キリストを十字架にかけることよって私たちの罪をゆるし、復活させることによって永遠のいのちを与えてくださいました。それは死なないいのちではなく、神様と深く結ばれる関係です。神様は人を愛するために創造されました。逆の言い方をすれば、人は神様に愛されるために生まれたのです。そんな私たちも神様を信じ愛することができるならば、これほどの幸せはありませんでした。しかし、私たちはそれを嫌うのです。神様に造られたものであることを良しとせず、神様を神様と認めず、自分が神様のなりたいのです。自分を中心に生きていきたいのです。ここに神様との関係の破れが生まれました。これを聖書は罪と呼びます。ここから様々な人の苦悩が生まれます。自分が中心であるということは、それだけ悩みや苦しみが多いのです。自分を中心に考えてしまう人の集まりには、自ずと葛藤や争いが生まれるのです。
神様はそれをそのまま放置されません。すべての問題の源である神様と人との関係の破れの回復、そのために神様は、ご自分の独り子イエス・キリストを十字架にかけるという予想もしない仕方で私たちの罪をゆるしてくださるのです。人の罪をゆるすために、ご自分の独り子を十字架にかけるということは私たちの理解を超えていますが、私たちの神様に対する罪は、そのような方法でしか解決できないほど深かったのです。そして同時に、神様の私たちを愛する気持ちは、それほどまでに深かったのです。
十字架によって死なれたイエス様は、三日目に復活されたのです。それは神様の絶対の表れです。人にとって避けることのできない、克服することのできない死に、勝利されるのです。この神様の絶対に信頼すること、そのことによって私たちもまた、死を絶対のものと恐れる必要がなく、永遠への歩みをゆるされるのです。その中心は、神様が人を愛された愛に生きることです。その愛を持って互いに愛し合うことです。そのような生き方こそが、神様との関係に生きることであり、人に最大の幸せをもたらすのです。
使徒パウロは言います。キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、そしてその復活のみ姿を弟子たちにあらわされたこと、この真実を伝えることが、聖書が大切に考えていることです。そして私たちの教会もこのために存在します。キリストの愛の教えをいただきながら、その教えに導かれ、祈りつついのちの歩みを求め続けたいと思います。
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