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聖霊降臨後第18主日
2006年10月8日 小島愛光(信徒)
小さい者の仲間
−互いに平和に過しなさい−
民11:24-30 ヤコブ4:13-5-8 マルコ9:38-50
■エルサレムへの道<死と復活の予告>
マルコ福音書8章27節から10章52節までは「エルサレムへの道」という主題のもとに据えられています。エルサレムへの道に向けてイエスは弟子たちの先頭に立って十字架の贖いを目指して歩んで行く、すさまじい宣教の歩みを生き生きとマルコは描き出しています。しかもこの部分で注目しなければならないことはイエスご自身の死と復活の予告が3回にわたってなされていることです。弟子たちは誰一人、この受難と復活の予告が「自分を捨て、苦難のイエスに倣うこと」を理解し察知することは出来ませんでした。それは、それぞれの予告に対する弟子たちの行動でそのことは明らかです。こうした弟子たちの無理解と、自己中心的な反応から次第に彼らはイエスの弟子として、弟子たちは「自分を捨て、苦難のイエスに倣う者」とされて行きます。
■止めさせてはならない
ヨハネはイエスに言います。「先生、わたしに従ってこない人が、お名前を使って・・・私たちに従わないので、やめさせまようとしました。」とイエスに報告します。ヨハネは自分の取った行動が人間的に見て正当で正しい判断をしたと思っていたのではないでしょうか。ヨハネにイエスは「よくやった」という言葉を期待していたのかもしれません。ここにも自分たちはイエスの弟子だというある種のエリート意識が芽生えていたのかもしれません。しかしイエスの答えは「やめさせてはならない」と言われます。「わたしの名を使って奇跡を行い・・・私たちの味方なのである」という答えでした。ヨハネの期待はくつがえされます。イエスの寛容で、開かれた姿勢がうかがえます。それとは対照的に弟子たちの狭い了見での判断に対してイエスは諭されます。第2回の受難告知のすぐ後での弟子たちの誰がいちばん偉いかと言う議論からも伺えるように、イエスの弟子だという特権意識をここにも見ることが出来ます。「私たちに逆らわない者は、私たちの味方である」といわれるイエスの言葉はこうした弟子たちの思いを打ち砕きます。敵だ味方だという単純な判断ではないのです。いや、敵も見方もないのです。仲間だと言われるのです。この時、激しく排他的な発言をしたヨハネも、イエスによって変えられて行きます。後にこのヨハネは愛の使徒と呼ばれるにふさわしい弟子となりました。
■主の民すべてが預言者になればよい(民11-29)
神は70人の長老にモーセに授けられている霊の一部をとって授けられます。幕屋に集まった70人の上に霊がとどまりました。しかし、その霊が未だ幕屋に出かけずにイスラエルの民と一緒に宿営に留まっていた2人の長老にも霊が留まりました。これを見たモーセの従者ヨシュアはモーセに「わが主モーセよ、止めさせてください」と訴えます。モーセは彼に「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」といわれます。なんとすごい言葉でしょうか。弟子たちの思い、争いとはまったくかけ離れています。この言葉からキリスト者すべてが預言者になりなさい。「神の福音を伝える証し人になりなさい」といわれるのです。今日立たせていただいている、とるに足りないまずしい僕にも、又すべての会衆お一人お一人に呼びかけられています。
■罪への誘惑
41節では「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」イエスの名のもとにある人は、みな仲間なのだと言われます。イエスはいつも敵の中にも味方を見ておられます。どんなに小さいことでも、イエスのみ名のためにすることは、神の目から、忘れられることは決してありません。それはイエスご自身にすることと同じだといわれます。
42節の「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は・・」これらの小さな者を軽視するなら、その人は裁きを受けます。だから小さい者をつまずかせる者は手、足、目を切り捨てなさいといわれます。両手、両足、両目がそろって地獄に落ちるより、片方になっても神の国に入るほうがよいとおっしゃいます。主イエスは良いものも、悪いものも共に負ってくださいます。「共に」「仲間」ということが常にキリスト者に求められています。さらにどんな犠牲を払っても救いを成し遂げなければならないということではないでしょうか。ここで求められることは、弱い立場の人々への配慮と罪に対する断固とした態度が、十字架への道を歩まれるイエスにつき従うということです。
■互いに平和に過しなさい
49節「火で塩味を付けられる」とはどう言う事でしょうか。キリストの苦難の十字架と迫害(火)の中での自己犠牲(献身)を意味するのだといわれます。(マルコ福音書研究鈴木浩著)第1回の受難と復活の予告の後で(8章34-35)「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というイエスの言葉に通じています。
「そして、互いに平和に過しなさい」というイエスの言葉で結ばれています。イエスは3回の受難と復活の予告の中での弟子たちの無理解と彼らの態度の中で、「誰がいちばん偉いか」「誰がいちばん良い席につけるか」といったつまらない論争をしていた弟子たちが、イエスによって変えられていったように、わたしたちも互いに仲間として、和解し連帯してイエスにしたがって共に歩むものとなってまいりましょう。
教会の内も外も、立場の違う人達、小いさくされた者と痛みを共有する塩をもって、互いに平和をもたらすものとなってまいりたいと思います。 アーメン
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