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聖霊降臨後第4主日
2006年7月2日 池谷考史(神学生)
讃美唱:詩編81編
説教題:主の「思いがけない言葉」 |
イザヤ58:11-14 2コリント5:1-10 マルコ3:1-12
詩人の讃美
「わたしたちの力の神に向かって喜び歌い ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ」。この詩編の冒頭で、詩人は盛んに主への讃美をせよといいます。この詩人がこれほどまでに主を讃美せよという理由は、単にそうするべきだからということではなく、6節にある、詩人が主からの思いがけない言葉を聞いたためにどうしても讃美せざるを得なくなったからなのです。詩人にとって思いがけない言葉とは、どのようなものだったのでしょうか。それは一方では、掟を破ったイスラエルの人々への神の罰、もう一方では敵の手に渡されたイスラエルの人々の救いの言葉でもありました。
イスラエルに与えられた定め
7節には次のようにあります。「わたしが、彼の肩の重荷を除き籠を手から取り去る」。このときイスラエルの人々は、今言いましたように、敵の手の内にあり、そういう意味で重荷を負っていました。自分では如何ともしがたいその重荷を主は取り除かれるというのです。そして、その条件として、8節にはこう続きます。「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない」。これは、モーセを通してイスラエルに与えられた十戒の中の第一の戒め、第一戒です。
これは、以前奴隷生活を送っていたエジプトから脱出し、生活の保障のない荒れ野のなかでもう自分たちの中に希望を見出せないそういう苦境の最中(さなか)に、与えられたものでした。その石に刻まれた古い掟を、今再びイスラエルの人々に示したのです。モーセに与えられて以来、イスラエルの人々は十戒を大事な掟として守り続けたものでした。それにもかかわらず、いつの間にかイスラエルの人々は掟を忘れ、他の神を求めた、つまり他の神を拝んでいというのです。
主は民を「思いのままに歩かせた」
掟を守らない頑なな心の民を主はどのようにされたのでしょうか。13節には次のように書かれています。「わたしは頑なな心の彼らを突き放し思いのままに歩かせた」。わたしが主であると示してもなお他の神を拝んだイスラエルの人々を、主はついに突き放したというのです。その結果、自由に歩みを始めた人々は、敵の手に落ちてしまったのです。主は、彼らの思うがままに歩ませることで彼らを罰したのです。
救いの主
人間が頼るものは主以外にはいない、そうであるからこそ主は権威をもってイスラエルに掟をお与えになります。「イスラエルよ、わたしに聞き従え、あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない」と命じられます。
これは、いかにも一方的な言葉ですし、正面から受け止めるならばわたしたち人間は萎縮してしまうような強い言葉です。でも、主の掟は一方的に与えられるからこそ、主の掟は主の掟であり続けるのです。そしてその掟によって主は人を本気で救おうとされます。本気で救おうとされるとは、わたしが本気だからあなたはどんなでも良いということではありません。むしろ、救う方が本気なら救う相手である人間も本気であれと期待されます。主が望まれるのは、単にあっさりと救い救われるだけの無機質な関係ではなく、神とその民との間の特別の信頼関係です。それほどまでに、主は大事な一人の人間としてわたしたちをいとおしんでくださるのです。そうであるならば、イスラエルにとっても、またわたしたちにとっても掟を受け入れることは主に希望を持つことに他ならないのです。
この詩編の冒頭の讃美は、わたしが主である、異国の神があってはならないという厳しい言葉に畏れつつもなお、わたしを本気で救おうとなされる方はこの方しかいない、という詩人の全存在をかけた真剣な信仰から出たものなのです。
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