聖霊降臨後第3主日・ホームカミング礼拝
2006年6月25日 北尾一郎(牧師)
土器のうつわに
サムエル上6:1-6 IIコリント4:7-18 マルコ2:23-28
■「人間は、考える葦である」という言葉は、だれでも知っている名言です。ところで、「人間」とは何かという質問に、あなたなら、どんな答えをなさいますか。また「キリスト者」とは何かという質問に対しては、どのように答えられますか。今日朗読された使徒パウロの手紙には、人間は「土器のうつわに、キリストの輝きという宝を入れている」−それがクリスチャンだ、と書かれています。上手い表現です。今風に言えば、人間は、「究極のアンバランス」(この上ない不均衡)ということです。一般の考え方としでは、「バランスが取れている」ことこそ大事です。「身分相応」という人生訓があります。「五木の子守歌」に、「よかしゃよかおび、よかきもん」という句がありますが、そのような“格差社会”の常識を、私は承認できません。しかし、これは人間同士の水平の関係です。 しかし人間にはもう一つ、「神と人間」という垂直の関係があります。私たち人間(アダム)は、どんなに立派に着飾っても、やがて土(アダマー)になっていく存在であり、まさに、ひと塊の“土くれ”にすぎません。(Amazing
grace! how sweet the sound、 That saved a wretch like me!)
■聖書の時代には、粘土をろくろを回しながら器の形にし、うわぐすりをかけて釜で焼くか、そのまま焼く素焼きの器も作られていました。いずれにしても、「土器のうつわ」は壊れやすいものの代名詞であり、「人間」の本質を描くたとえでした。
しかし、この“土くれ”には、とんでもない「宝」が納められている、とパウロは言うのです。その「宝」とは、「キリストの輝き」です。IIコリント4章4節には、「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」です。普通に考えると、「キリストの輝き」を納めるのにふさわしい器は、決して“土器”ではありません。むしろ、金の器か、プラチナの器ということになるでしょう。それなのに、神は、私たちのような「土器のうつわに」、「キリストの福音の光」を納めることを選ばれました。これが、「究極のアンバランス」でなくて、何でありましょうか。
「クリスチャン」とは、牧師も信徒も、決して“完全無欠の人間”などではありません。「クリスチャン」とは、まさに「究極のアンバランス」そのものなのです。ですから、使徒パウロと同じように(IIコリント4章5節)、「私たちは自分を宣伝しているのではなく、主イエス・キリストを宣言しているのです」。
私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅びない。
■「死ぬはずの人間」という土器に、「主イエスの復活の命」が宿っています。私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます−これが「洗礼」の意味です。この「内なる人」は「キリストの福音の光」によって育てられます。そのために私たちは「礼拝」に集められます。「礼拝」を守るためにこそ「安息日」(休日)が設定されました。まさに、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と主イエスが言われた通りです。
人間は自由でなければなりません。最も素晴らしい自由−それは礼拝を守る自由です。 |