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復活後第4主日
2006年5月14日 小島愛光(信徒)
手入れをしてくださる方
(わたしはぶどうの木)
使徒8:26-40 1ヨハネ3:18-24 ヨハネ15:1-10
聖書に登場する植物の中でぶどうは圧倒的に多く用いられています。「ぶどう」「ぶどうの木」「ぶどう酒」「ぶどう園」などと記され、これほど多く出てくる植物名は他にはありません。もともと"ぶどう"は当時のユダヤ地方においてはごく一般的な植物で人々に親しまれていました。それはどこにでも散見される植物であったといえます。その栽培方法は、湿度の高い日本のように棚を作っての栽培方法とは違い、ユダヤ山地の石のゴロゴロとしている所でも地ばい法と言って、地べたを自然に這わせて栽培する最も原始的な方法であったようです。しかし、ぶどうの木は毎年、枝の剪定をきちんとしないと、良い実を結ぶことは出来ません。
“ぶどうの木”
ヨハネ福音書の中には「私はぶどうの木である」と同じように「私は〜である」という表現がいくつも出てきます。それは「世の光」「門」「よい羊飼い」「真理」「道」「いのち」です。こうした形容だけではなく、「わたしはある」といわれているように神ご自身の自己宣言(出エジプト3:14)に基づいた神的宣言をうたわれている箇所も幾つかあります。
(8:24,28,58.13:19)
旧約聖書においては、しばしばイスラエルの民がぶどうの木にたとえられています。例えば詩篇80:9以下には神の業をぶどうの木の栽培にたとえて語られています。ぶどう畑のもう一つの有名な箇所はイザヤ書5:1〜6です。
この詩からは神がイスラエルの民をいかに愛されたかが伝わってきます。しかし、イスラエルは神の期待に反して、悪しきぶどうの実を結ぶことになってしまいました。神から選ばれたイスラエルの民であることが救いの条件ではなく、イエス・キリストにつながって良い実を結ぶ者こそが救いに与るのだということです。
“既に清くなっている”
3節では「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われています。
この「清くなっている」という言葉は、この前の13章にも出てきます。イエス様が弟子たちの足を洗われたときに、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言われて、ペテロの足を洗われました。ここでも、主の慰めと励ましの言葉が語られます。洗礼によってイエス・キリストにつながっている者は、それだけで、既に清くされているのです。
「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみないよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」 その宣言の後で、やはり主の慰めと励ましの言葉が添えられています。「わたしの話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている」といわれるのです。イエスさまはみ言葉によって、既に枝の手入れが済んでいるといわれるのです。
“主につながる”
ヨハネ福音書には「つながる」という言葉と「とどまる」「泊まる」という表現が出てきます。この「つながる」という言葉も、大切な言葉の一つになっています。
ぶどうの木であられる主につながることによって、み言葉を受け、清くされ、豊かな実を結ぶように、永遠の命を注ぎ込んでくださいます。
わたしたちは、世俗的な行いや、さまざまな技によって豊かな実を結ぶのではありません。ただ「つながっていなさい」ということが求められているのです。
わたしたちがいつも自分の力で一生懸命にぶどうの木につながっていようとすることは、大変な努力が必要であり、そんなことは到底出来ることではありません。
ぶどうの木は毎年、枝の剪定を行うことによって、新しい枝に、新しい年に豊かな実を結ぶことが出来ます。主イエスのぶどうの木は、わたしたちが、たとえ離れている時でも、手入れを充分に施していてくださるのです。
そのことは、「小さくされた人々のための福音」の中で、本田哲郎神父はこう云われています。「わたしが身をもって告げたそのことによって、あなたがたは、すでに手入れがすんでいる」(15:3) 既に手入れがすんでいるぶどうの木に連なるとき、主は既に手入れをすませ、豊かな実を結ぶ枝として受け入れる準備を整えてくださっているのです。
第一の日課(使徒言行録8:16〜40)は神からの啓示によってフィリポはガザへの道で宦官に出会います。「読んでいることがおわかりになりますか」と声を掛けます。宦官はフィリポの福音の知らせを通して信仰を告白し、洗礼を受けます。「そして喜びにあふれて旅を続けた。」のです。 彼も主につながる者となりました。主の御業が戒律から宦官を解き放し、既に手入れがすんでいるぶどうの木につながる枝とされたのです。
“愛と命と聖霊の力”
「わたしはぶどうの木」と言われるお方が、わたしたちの内に愛と永遠の命への希望と聖霊の力を注いでくださるのです。
ぶどうの枝が、毎年、剪定してよい実を結ぶのと同じように、わたしたちも毎週の礼拝と聖餐を通して、主イエス・キリストの愛を受け、新しい命を与えられ、希望を持って主の枝としての福音を喜びを持って受け取り、既に手入れがすんでいると言ってくださるぶどうの木につながって、成長して参りたいと思います。
ぶどうの木であられる主の恵みに感謝し、主によって今日も新しくされて福音の歩みに派遣されて参りましょう。
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