四旬節第5主日説教
2006年4月2日 鈴木連三(信徒)
わたしは裁かない
〜新規契約更新の勧め〜
エレミヤ31章31節〜34節 エフェソ3章14節〜21節 ヨハネ福音書12章36節b〜50節
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。
携帯電話って難しいと感じている方はいらっしゃいますか? わたしは慣れるまでは使い方が難しいと感じることもありましたが、本当に今でも難しくて分からないなあと感じるのが、その契約ごとに異なる料金制度です。たとえば昼によく使うか、夜が多いかとか、家族ばかりと話すか仕事で色々かけるかとか、家族何人かでまとめて加入しているか、その中に小学生がいるかとか・・・使い方によって電話会社との契約内容を変えることで、料金に大きな差がでるそうです。でも、新しい料金サービスができるたび、どれにすれば本当に得なのか見極めることはとても難しいことです。電話屋さんに行って店員さんに相談しても、その店員さんでもわからないということも珍しくないようです。
エレミヤの時代
今日の礼拝の第一のテキストとして、わたしたちにはエレミヤの預言の言葉が与えられています。まず、このエレミヤの時代の背景を知っておきましょう。エレミヤ書1章には、エレミヤの預言者としての活動期間は、南王国、ユダの王ヨシヤの治世第13年(紀元前626年)から始まり、その子ゼデキヤの治世の第11年(紀元前587年)の5月、つまりバビロニアによる捕囚まで続いたとされています。始まったときには、ヨシヤ王は21歳、エレミヤはまだ、18歳であったといわれています。
当時、北王国であったイスラエルを既に滅ぼしていたアッシリアは、すでに勢いをなくしていました。バビロニアの台頭です。そのバビロニアがユダ王国をうかがっていました。
この時代の大きな出来事として、ヨシヤ王による『宗教改革』運動があります。ヨシヤ王の治世第18年(紀元前621年)に行われたこの改革は、バアル神などに影響を受けたイスラエル全域にわたる地方の聖所の全廃、エルサレムへの聖所の統一による純化が中心となっています。これによりエルサレム集中による『挙国一致体制の確立』が図られました。しかし、そのヨシヤ王はそれから12年後、紀元前609年に、エジプトとの戦いで戦死します。ユダ王国はエジプトに敗れてから、当然、親エジプト、つまり、反バビロニア政策を採ることになります。しかし、紀元前598年と紀元前589年から587年にかけてバビロンの進攻をうけ、ユダ王国は滅亡し、神殿は無残なまでに崩壊させられたのです。
エレミヤの預言『新しい契約』
エルサレム神殿絶対主義ともいえるヨシヤ王の宗教改革の後、イスラエルの民は国家滅亡、神殿の破壊という絶望的な結末を迎えたわけです。このような時代にエレミヤは預言します。今までの契約とは違う、新しい契約が与えられる日が来るというのです。
今までの契約・古い契約とは神様がモーセとシナイで締結した十戒のことです。古い契約、十戒が二枚の石板に刻まれたのに対し、神様が新しく結ぶ契約は人間一人一人の心に刻まれるといいます。古い契約は神様の正義・公平を命令の尊守を求める形で与えられたものですが、新しい契約は人間性そのものの更新ともいえる性質を持っているということです。
神様はエレミヤの口を通して語ります。
『わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。』
『わたしは裁かない』
今日の福音書の箇所は先週の箇所と同様に、イースターでの洗礼を促すために大変ふさわしい箇所であるといわれます。それは、この中にキリストの福音のエッセンスが凝縮されているからです。
『わたしを信じるものは神を信じる。暗闇の中に留まることはない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た。』
キリストが世に来た目的は人間を神様への背信、すなわち罪から救うことなのです。人間の罪を裁くことではありません。裁くということは相手のしたこと、経緯や結果に応じてそれぞれ相応しい応答を与えることと言えるでしょう。良い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が、裁きによって与えられます。しかし、キリストによる救いはこのようなものではありません。人間がどんなことを行ったのかということには関わり無く、罪を赦し、恵みを与えてくださいます。ここでは人間の側の行為、善行の度合いは関係ありません。ただキリストの福音を自分のこととして心から全て受け入れること、つまり信じることだけが求められるのです。
お得な新規定額契約
これは携帯電話の契約にたとえるまさに定額契約です。この契約さえすれば、どれだけ電話を使っても、料金は変わらないという契約です。わたしたちが『キリストを信じる』という新しい契約を結びさえすれば、わたしたちに何があっても、わたしたちがどんな人間であっても、イエス様は、わたしたちを裁くことをしないで、赦してくださるのです。イエス様とつながってさえいれば、神様と離れることは決してありません。
しかも、その料金は払いきれないほど滞納していた今までの分も含め、利用者であるわたしたち以外からすでに支払われているのです。だれが支払ってくれたのでしょう?
電話会社の経営者である神様です。それが先週のテキストでもあるキリストの十字架です。
先週のテキストはわたしたちに語ります。『神はひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。』
わたしたちは、途方も無いほど罪の代償を神様に払わなければ、神様につながることは赦されないはずなのに、神様自身であるキリストが十字架にかかることによってすでにそれが支払われています。このような素晴らしい新規契約のチャンスが与えられているということは、驚きであり、ただただ恵みです。
但し、この新規契約加入期間は無限ではありません。『わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れないものに対しては裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。』とイエス様は言います。終わりの日にキリストは再臨されるのです。それがいつかはわたしたちにはわかりません。明日かもしれないのです。だから、わたしたちはいつ来るかわからないキリストの再臨の日が来る前までに、つまり、今すぐにこの勧めに応えることが求められているのです。
聖餐の設定辞
私たちはこの後、聖餐を行います。聖餐の設定辞を思い起こしましょう。
『また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです』ここにも「新しい契約」という言葉が出てきます。聖餐では、私たちが聖餐にあずかるたびに、私たち自身が神様との「新しい契約」の関係にあることを確認できるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、わたしたちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。
アーメン |