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顕現節第7主日<日本福音ルーテル教会・宣教の日>礼拝
2006年2月19日 池谷考史(神学生)
あなたを呼ぶ方
イザヤ44:21-22 2コリント1:18-22 マルコ2:13-17
・レビを弟子にする
今日の福音書は、イエス様がレビという徴税人が弟子に召された場面です。当時の徴税人とは、その立場を利用して不正に税を徴収したため人々からは好ましく思われていませんでした。ある時、イエス様は「通りがかりに」レビに出会い、こう言います、「わたしに従いなさい」。きっとレビはどんなにか驚いたことだろうと思うのです。それは、予想もしない突然の出来事だったから、ということもありますがそれだけではありません。いまや人々の間でヒーローとなったイエスという人が、誰からも相手にされない自分に声をかけてくれるなんて、そういう驚きがレビにはあっただろうと思うのです。でも、結局レビは素直に従い行き、彼自身の家でイエス様と多くの徴税人や罪人たちと食卓を共にします。
・罪人
そこには、「実に多くの人がいた」のであります。正しい人だけでなく、多くの徴税人や罪人がイエス様によってレビの家に招きを受けていたのです。そこへ、ユダヤ教の大変信仰深い(と他人からも思われ自分でも自負していた)律法学者が弟子に向かって「どうしてイエスは徴税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」と問いかけます。ユダヤの社会において、ともに食事をすることはそこにいる人々が同じ共同体の仲間であることを意味しました。ユダヤの「聖い」はずの共同体に、なぜ、徴税人が席を連ねているのか、彼にそんな権利がある訳がないではないか、そういう学者の思いが背後に透けて見える問いかけです。
これに対して、イエス様は答えます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
もともと、罪という言葉は的や目標を外すことを意味します。ですから、決まりや常識を守ることが目標であるユダヤ社会の中で、それらを守らないことは的外れ、すなわち罪ということになります。必要以上に不正にお金を集めていたレビはこの意味でまさに当時の典型的な罪人でした。
・罪人の招き
ここで立ち止まって考えてみたいことは、イエス様がレビにもたらした罪の赦しとは彼の犯した罪自体を赦す、それだけのものだったのか?ということです。イエス様による罪の赦しとは犯した罪を赦すだけに留まるものではなく、もっと根底にあるレビの存在そのものにまで深く及ぶものでした。
徴税人レビが本当に苦しんでいたもの、それは、罪を犯したことによって人々から白い目で見られることであり、自分は罪人であるという劣等感でした。レビは、如何に自分が罪深い者であるか、聖い神の子イエスとは似ても似つかぬかけ離れた存在であるかを誰よりも身にしみて悟っていたに違いありません。
イエス様は他の多くの正しい人々よりも、そのレビに向かって、「わたしに従いなさい」と声をかけたというのです。この瞬間、レビには希望の光が差し込みました。イエス様はレビの外側からではなく、心の奥深くにまで降って行き、彼が抱えていた孤独、恥、罪の意識そういった苦悩を共にし、引き受けることで彼を救ったのでした。そのことによってレビに本当の意味での命を与えたのでした。こうしてイエス様は御自分のもとに「罪人を招」き、レビは弟子としてイエス様に従っていったのでした。
・今もおられる「あなたを呼ぶ方」 〜変わらぬ約束〜
ところで、神による救いは、旧約聖書の時代からずっと変わらぬ神の約束でした。それが、バビロン捕囚に取られた旧約の民にも与えられたことが今日のイザヤ書には書かれています。
このイザヤ書44章が書かれた捕囚末期、民が抱えていた根本的な問題は、衣食住のことではなく、絶対だと思っていたヤハウェの神を失った自分たちが何者であるかが分からない、自分の存在が透明であるという問題でした。そんな民に向かって神は預言者イザヤを通してこういいます。「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」。ですから、実際は神は彼らを見捨てておらず、民の知らないところで憐れみをもってずっと関わっていてくださったのです。この言葉をイザヤから伝えられたとき、民は生きる希望を与えられたに違いありません。実際、故郷に帰ることが許されたのはこの後まもなくのことでした。
この救いの業が新約時代、イエス様を通してレビにも同じようにもたらされました。
パウロが2コリント書の中で述べるのはまさにこのことです。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となった」。この方とは、もちろんイエス様のことです。そしてまた、この歴史の事実、すなわち、徴税人として一人ぽつんと通りに座っていたレビという一人の男を、人となった神の子イエスという男が弟子として招いた事実を通して、神様の救いの約束が確かなものであると今のわたしたちにも示されたのです。神様は天にいて上からわたしたちを眺めているだけでなく、私たちの中にいて働いてくださっている、それがイエス様がこの世に来られた意味です。
このように、イエス様において実現した神の変わらぬ約束は今のわたしたちにも与えられるものです。神の前では「罪人」としてしかあることが出来ないわたしたちは、そうであるがゆえに誰もが一人の例外もなく招きを受けているのです。
わたしたちが神にふさわしくない者であるにもかかわらず、むしろそうだからこそ「わたしに従いなさい」とわたしたちを呼ぶイエス様がおられることを今日の聖書は思い起こさせてくれます。そのことに希望を持って歩んでいきたいと思います。
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