主の顕現主日(エピファニ−)
2006年1月8日 北尾一郎(牧師)
異邦人の心を照らす光
イザヤ60:1-6 エフェソ3:1-12 マタイ2:1-12
■「異邦人」とは誰のこと
「異邦人」という言葉があります。「異邦人」とは誰のことでしょうか。この言葉は聖書から出てきたものです。聖書は答えます。―「異邦人」とは、今ここにいる私たちのことだ、と。つまり、私たちは「ユダヤ人クリスチャン」ではなく、「異邦人クリスチャン」なのです。今日の使徒書であるエフェソの信徒への手紙3章の中で、使徒パウロは、「私は、あなたがた異邦人のために、キリスト・イエスの囚人となっています」と言うのです。
「エフェソ」の町は、ローマ帝国のアジア州の主要都市として知られていました。現在はトルコの国になっています。エフェソ教会は、使徒パウロの働きによって創設されました。その後、ヨハネという指導者がエフェソを中心とする「教区」の監督となり、「ヨハネの黙示録」が書かれたことは、ご存じの通りです。初代キリスト教会の中心の一つとなりました。そのエフェソの教会は、実に「異邦人の教会」であったのです。エフェソには、アルテミスという女神の偶像を祀る壮大な神殿がありました。アルテミスは、多産と豊饒の神として有名でした。キリスト者たちは、そのような世界から呼び出されてきたのです。
■「救いの船に乗る“乗船チケット”を持っている」かどうか
エフェソの異邦人キリスト者が聞いた「福音」は、どのようなものだったのでしょうか。それは、実に明快なメッセージでした。「神の民ユダヤ人」と「異邦人である非ユダヤ人」とを厳しく区別する時代が、キリストが来られたことによって、ついに終わった、というメッセージです。
キリストが来られるまで、ユダヤ人と異邦人との間にはどのような区別があったのでしょうか。エフェソの信徒への手紙の3章に書かれているのは、「約束されたものを受け継ぐ」かどうか、「同じ体に属する」かどうか、「同じ約束にあずかる者となる」かどうか、ということです。この「約束」とは「救いの約束」です。
たとえて申しますと、「救いの船に乗る“乗船チケット”を持っている」かどうか、というようなことです。このようなことは、現実の世界でもいろいろな形で起こります。それは重大な区別です。「救いの船に乗れる」かどうか、ということです。福音とは、今まではこの乗船チケットを持っていなかった人々にも、乗船チケットが与えられるというようなことです。この「乗船チケット」は、救い主イエス・キリスト御自身であります。キリストは、ユダヤ人であるか、非ユダヤ人であるかにかかわりなく、すべての人間のために来られた救い主です。ですから、救いの乗船チケットは、すべての人に与えられます。
まさにこの「福音」こそ、キリストが来られるまでは「秘められた計画」でありました。神は、「秘められた」この計画を、使徒たちをはじめとするキリスト教会に対して「啓示された」のであります。そして教会をとおして世界に伝えられるのです。人間の世界は、キリストをとおして、「ユダヤ人」と「異邦人」とを隔てる壁が取り壊されたことを知りました。「和解の道」が存在することを知りました。
■“乗船チケット”は、受け取らなければ
使徒パウロは、彼自身のことを、神の恵みによって「この福音に仕える者」とされたのだ、と言っています。しかも、パウロは、この恵みが「聖なる者たち(キリスト者)すべての中で、最もつまらない者である私」に与えられた、と語っております。そのような「私」が伝えることであるから、「すべての人が救われる」のは間違いないことだ、と言っているのです。
ただ、この“乗船チケット”は、それぞれが受け取らなければ、乗船できません。
すべての人に与えられますが、その人が受け取らなければ、その人のものにはなりません。親は、自分だけ乗船しようとは思いません。愛する子どものためにもチケットを受け取ります。それが、「洗礼」であります。子どもは、大きくなってから、そのチケットの重大性を知り、親の愛に感謝するのです。それが、「堅信式」です。
(教会学校の一生徒の年賀状:「今年も神への信仰を大事になさってください」。)
■「異邦人」である、かの学者たちが
マタイ福音書2章には、「占星術の学者たち」(「賢者」兼「祭司」)が、伝承によって知らされていた特別の星が昇るのを見て、世界人類の救い主に会わないではおれなくなり、はるばるイラン・イラク方面から来て、ついに幼子イエスさまを拝んだ
という話が記録されています。
この学者たちは、いわゆる「異邦人」を代表していました。マタイ福音書は、この話によって、最初のクリスマスの日に生まれたこの「幼子」は「ユダヤ人の救い主」であるだけではなく、「異邦人の救い主」でもあることを強調しているのです。当の「ユダヤ人」が気づくより前に、「異邦人」である、かの学者たちが、「ユダヤ人の王」(政治的な王を超えた世界の救い主)の出現を知らされたのです。
異邦人を代表する「シェバ=アラビアの人々が黄金と乳香を携えて来る」ということは、すでにイザヤ書60章に預言されています。その預言は、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」という言葉によって始まっています。考えてもみましょう。昇る光は、「ユダヤ人」だけの上に昇ることはありません。「異邦人」の上にも昇ります。ですから、「主の栄光」は、「異邦人」の上にも輝くのです。そのことは、東の学者たちが、ユダヤ人の中心地であったエルサレムの人々よりも早く「主の栄光」が輝いていることに気づいた、という事実によっても示されています。
ルカ福音書1章に書かれている「シメオンの歌」も、「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」という言葉で結ばれています。
■今ここにいる「わたしたち」も
エフェソの信徒への手紙3章の12節に、使徒パウロは次のように書いています。「わたしたちは、主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」。「わたしたち」とは、ユダヤ人である使徒パウロだけでなく、異邦人であるエフェソの教会の人々も、含まれています。
3章の1節で、「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは…」とお互いを区別して語っていた使徒は、12節で「わたしたち」という代名詞によって、お互いが「同じ立場にある」ことを表現しています。今ここにいる「わたしたち」も、エフェソの教会の人々と同じ立場に立っているのです。 |