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待降節第3主日
2005年12月11日 小林恵理香(信徒)
心の大掃除
イザヤ61:1-4 1テサロニケ5:16-24 ヨハネ1:19-28
大掃除の意味
すす払いという行事がある。新年の安泰と五穀豊穣を祈って、年神さま(農耕の神)をお迎えするために、家中を掃き浄める、あらたまった行事だったそうだ。それが今の大掃除になったという。教会でも先日、教会暦の新年を迎えるに当たり、大掃除を行った。普段からきれいに掃除されている教会だが、大掃除として「気合を入れて」磨いてみると、案外汚れていることに気づかされた。こうして、さらにきれいになった教会で私たちは教会の新年である、待降節を迎えた。
待降節の典礼色は紫だ。紫は「悔い改め」を表す。この期間に今度は「心の大掃除」をしたいと思う。心の大掃除は、掃除をすることで汚れに気づくという点で、家の大掃除と似ている。しかし、最終目的が「きれいにするため」ではなく、「きれいにされる必要があることに気づくため」という点で異なる。私たちは、自分の心を見つめなおすことで、自分の心は自分が普段考えているよりもずっと汚れに満ちていることに気づかされる。
主の道をまっすぐにする
私たちはいろいろなものに心を奪われて、大切なものに目を向けていないことがある。「臭い物に蓋をする」かのように、心の汚れに蓋をして良しとしてしまっていたりする。このような状態では、イエス様を心の中にすっとお迎えできない。「主の道をまっすぐにせよ」という預言者イザヤ、また洗礼者ヨハネの言葉は、そのような私たちに向けられている言葉だ。
この言葉は、「悔い改め」とセットで語られることが多いため、つい、(悔い改めて)自分の心をきれいにし、主をお迎えしなければならないのだ、という風に解釈してしまいがちである。しかし、私たちがしなければならないのは、自分で自分の心をきれいにすることではない。自分がきれいにされなければならない人間であると気づくことなのだ。
荒れ野にこそ
洗礼者ヨハネは「荒れ野」で叫んでいた。「荒れ野」というのは、夜は冷え、昼は激しい暑さで、水に恵まれない過酷な地である。また、人間の罪によって神の祝福が失われた世界のシンボルでもあり、罪に汚れ、神の祝福を失った人間の心のことでもある。
今日朗読されたイザヤ書は、第3イザヤと呼ばれる箇所で、バビロン捕囚から帰ってきた民を相手に語られた言葉である。
バビロンで捕囚になっていた人々にとって、故国エルサレムに帰ることこそ悲願であったろうと思う。しかし、彼らがやっと帰れた故郷で直前したのは、厳しい現実だった。50年ぶりのイスラエルは、すっかり変わり果てていた。かつて自分たちが住んでいた家、かつて自分たちが礼拝していた神殿が以前の姿を留めていないほど荒廃しきっていたのだ。バビロンに連れて行かれた者と、エルサレムに残った者との間に争いもあったようである。神殿を再建しようと試みたが、周りの民族からの妨害もあり、作業も中断してしまう。イスラエルでは何か深い悲しみの出来事が起こると、灰を頭からかぶる習慣があったそうだ。人々は断食をし、粗末な服を着て、広場に行き、灰を頭からかぶった。もはや希望も明るい未来もない。彼らにとって、目の前にあったのは、「荒れ野」以外の何物でもなかっただろう。
第3イザヤはそのような人々に「良い知らせ」を伝えるために遣わされた。救い主が必要なのは、「荒れ野」の中で苦しんでいる彼らであり、私たちなのだ。
あなたがたが耳にしたとき
それにしても、厳しく、やるせない現実に直面するとき、「良い知らせ」に希望を見出すことができるだろうか。しかも、イザヤは、悲しみの灰を喜びの栄光の冠に、暗い心を賛美に代えると言うのだ。「ああ、そうですか。」と素直に受け入れられる内容だとはとても思えない。
このイザヤ書の箇所は、イエス様が故郷ナザレの会堂で朗読された箇所でもある。ルカ福音書によると、イエスはそのとき「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話され、人々はイエスがヨセフの子であるという現実に気をとられ、イエスの言葉を素直に受け入れることができなかった、そうである。
私たちも、神の約束により頼むのではなく、目に見える現実に心を奪われ、嘆きを希望に変える力を持った方がおられることを忘れてはいないだろうか。希望の根拠を神に置くのではなく、「荒れ野」そのものに求めて、諦めのため息をついていないだろうか。
現実ばかりに向いている目をもう一度神からの希望に向けること、思い込みから開放されて神の約束に素直に耳を傾けること、これこそが待降節に求められている「悔い改め」であり、「主の道をまっすぐに」することなのだ。クリスマスに私たちのもとに来られる方は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語ることができる方なのである。
正義の樫の木に
イザヤが私たちに伝えるのは、嘆きが希望に変えられることだけではない。私たちが主を証する「正義の樫の木」と呼ばれるようになるとも言っている。正義とはキリストのことである。洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ声」となり、やがて来られる方を証したように、私たちもまたイエス様を伝える「正義の樫の木」になるのだ。私たちが、クリスマスにお生まれになる方によって「荒れ野」から開放されていることを、全身で表す「正義の樫の木に」。
キリストを伝えるのに、能力や資格は必要ない。洗礼者ヨハネは、自分がメシアでもエリアでもないと認め、イエスの「履物のひもを解く資格もない」と言っている。「履物のひもを解く」のは奴隷の仕事であり、ヨハネは自分が奴隷以下だと言うのだ。このままで神の霊にとらえられ、主によって油を注がれればよいのだ。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これこそ、私たちが主を証する最高の方法ではないだろうか。「荒れ野」としか思えない現状の中で、今度は私たちが「良い知らせ」を伝えていきたい。
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