聖霊降臨後最終主日
2005年11月20日 北尾一郎(牧師)
永遠の祝福
エゼキエル34:11-16、23-24 1テサロニケ5:1-11 マタイ25:31-46
■最後の審判
今日は、キリスト教会の「一年」の最後の日曜日です。「王であるキリストの日」という言い方もあります。「今日の福音書」(マタイ25:31-46)は、「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」“人の子”を、私たちに指し示します。“人の子”とは、「人っ子=にんげん」という意味ではありません。それは、旧約聖書の中で最も新しい時代の文書に書かれている特別な言葉で、「神から永遠の王権を受ける“メシア・救い主”」(ゼカリヤ14:5-9、ダニエル7:)を意味しています。
永遠の王の第一の任務は、その時、「最後の審判」を実施することです。ミケランジェロを初めとして、多くの画家がこの主題を表現してきました。「最後の審判」という言葉には、三つの意味があるのではないでしょうか。第一は、時間的な意味での終末における「最終の審判」です。第二は、「すべての国の民」がこの王の前に立つ、という点です。国によって微妙に違う“諸国家の法”を超えた、“普遍的な法”による審判という意味での「共通の審判」です。第三は、人間が行う相対的な審判を超えた、神による絶対的な審判という意味での「究極の審判」です。
■究極の正義
私たちは正直なところ、このような「最後の審判」があることを信じているでしょうか。キリスト教に対する疑いの一つは、現実の世界に“正義”や“公正”が存在するとはとても思えないという点です。聖書の中にも、そのような疑いを持つ人々の言葉が書かれています。今日の福音書は、そのような質問に対する回答であります。すなわち、「最終の、共通の、究極の」審判がある、言い換えれば、究極の「正義」が存在する、というメッセージです。
では、究極の「正義」とは何でしょうか。パレスチナでは、「羊」と「山羊」とは見分けがつかないという話を聞いたことがあります。専門家である「羊飼い」は、その群れを「より分ける」ことができるというのです。人間の世界では、誰が本当に正しい人であり、どのような行為が正義に相当するかを判断することは、きわめて困難です。しかし、究極の審判者には、それができるというのです。
今日の第一の日課(エゼキエル34章)は、神は“羊飼い”であって、「イスラエルの牧者」であり、神御自身が、散らされた民を集めてくださる、という希望に満ちた説教です。特に16節は、「羊飼い」のイメージと、「神」のイメージを重ねています。
わたしは失われたものを尋ね求め、
追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、
弱ったものを強くする。
しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。
わたしは公平をもって彼らを養う。
■祝福された人たち
「さあ、わたしの父に祝福された人たち」と、この王によって呼びかけられた人々の特長は、「愛」を実践しているのに、その意識がない、ということです。これは、とても重要な意味を持っています。「よい行い」によって救われる人はいない、ということです。その王は、「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と宣告されるのです。天地創造の時には、誰一人、良い行いをしてはいないわけで、しかも、天地創造の時に既に、救いが「用意されている」、というのです。それは、何もしていないのに、“プレゼント”を受け取るようなものです。
お前たちは、
わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、
病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれたからだ。
■意識しないで
しかも、「神に祝福された人たち」は、「意識しないで」、愛を実践しています。「正しい人たち」は王に答えます。
主よ、
いつわたしたちは、
あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、
のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、
裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、
牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。
愛とは、そのようなものでしょう。主イエスの教えの言葉を思い出します−「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。・・・隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ
6:3-4)。
■救いにあずからせるように定められている
神に祝福された人たち」は、この王のために何も「しなかった」と思い込んでいます。自分は、無知で、不完全で、罪深いという意識が、この人々を支配しています。いつの時代もキリスト者は、そのような者です。ですから使徒パウロは、今日の第二の日課(テサロニケの信徒への手紙1)に、こう書いています−「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を謹んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(5:8-10)。
このことは、キリストの福音を知る機会を得ないで、あるいは必要なオリエンテーションを受けられないまま、地上の生涯を終えて、神のみもとに召された方々の場合も同じであります。主は彼らのためにも死なれたのです。救いにあずからせるために。 |