聖霊降臨後第18主日
2005年9月18日 岸本進介(信徒)
危険
旧約:エレミヤ15:15-21 使徒書:ローマ12:9-18 福音書:マタイ18:1-14
本日の福音書テキストは3つの部分に分かれ、それぞれ小見出しがつけられています。3つの主題があるのではと最初は考えました。
- 天の国でいちばん偉い者 誰かに頼らなければ何もできないような者が天の国では最も偉い
- 罪への誘惑 罪へ誘惑する者を捨てる
- 「迷い出た羊」のたとえ 99匹より迷った一匹を大事にする
迷い出た羊のたとえは、昨年9月12日に説教をさせていただいた時のルカによる福音書15章1節以下と同じたとえです。
天の国で偉い者と弟子がイエスに尋ねたのは、一部の弟子たちが主の変貌に立ち会ったからではないかと思いつきました。一般の社会では組織が存在し、その中でランクがあります。動物でもペッキング・オーダーという順位が存在します。弟子たちはそれを自然に思いついてしまったのではないかと想像しました。しかしイエスの弟子、この世での偉さではなく、天の国の偉さを尋ねたのはさすがだと思います。
ここでは、単に存在が低い、というより、誰かに頼らなければ生きていけない存在、そして誰かに頼り切る状態をわかりやすくたとえると、小さな乳飲み子のような存在が適当と考えられる。頼り切る相手は、小さな子供ならその保護者、多くは母親でしょう。しかしこれはたとえです。父であり子であり聖霊である主に頼り切らなければ生きていけないような人が、主は最も大事にするとおっしゃっておられるのでしょう。
羊は群れで生活する動物で、視力が非常に弱いのだそうです。他の動物を圧倒出来るような体でもなければ、強い牙などを持っているわけではない。そして、羊は視力が非常に弱いのだそうです。このため、群れから離れてしまい、鳴き声もとどかなくなると、群れに戻るのは不可能になってしまうそうです。
周囲に気を遣う群れの仲間で生活していたものが、急に群れから離れてしまうと、元の群れに戻ろうと必死になるのでしょう。しかし、自分一人では元の群れに戻る能力を備えていない。だれかに頼らなければ元の群れには戻れない事になります。
迷い出た羊が羊飼いにみつけられた時は、さぞかしほっとしたことでしょう。
羊の立場に立ったと考えると、迷っているときは、もうどうしていいかわからないほど困って混乱してしまうでしょう。もしここで誰かが助けてくれるようなら、その助けに頼り切ることでしょう。
羊は群れで生活するのですが、これは私達の教会にもたとえられます。
迷い出た羊、私達の兄弟姉妹は、まだ教会に残っている99匹の私達にとっては、主が最も大事にするのと同じように、私達自身が大事にしなければならないのでしょう。
迷い出た羊をつれもどすのは、大岡山教会ではたった一人の牧師だけではなく、私達教会に集う者に主が与えられた役割でしょう。
大岡山教会、あるいはルーテル教会、あるいはプロテスタント教会は、教会の中で上下関係を作らない組織体です。私は今は99匹の群れの中に加えていただいていますが、いつ迷い出てしまうかわからない羊です。牧師を中心として、迷い出ないように、そして迷い出ても連れ戻すようにと教会生活を語っておられるのでしょう。
一人で誰の助けも得ずに聖書を読むと、罪への誘惑の話はこれらの話と矛盾すると思われてしまいます。
極端に言うと、天の国に入るには、罪を犯す部分を捨てればよい、ともとれます。
一度はイエスに救いを拒絶されたカナンの女も、食卓から落ちるパンくずを子犬がいただく、と、イエスに頼り切る信仰ゆえに癒されました。
それなのに、罪を犯す部分をあっさりと捨ててしまえばいいのでしょうか。まるで、99匹の羊がいるのだから、迷い出た(悪さをした)1匹は捨て置いてもいいとも聖書の文脈を考えなければ受け取ることができてしまいます。
捨てなさいと言われているその捨てる対象は、自らの体の一部です。右手だけ、片目だけが誘惑するというのではなく、片手あるいは片目に危険がある、と考えると、生きて天の国に行くには、それ自身は独立した存在ではない体の一部を捨てることは理にかなっているようにも思えます。
罪に誘惑するもの、この言葉をカトリックのスペイン語訳聖書ではPeligro(危険:ペリーグロ)と訳されています。罪への誘惑を危険と言い換えて考えるとどうでしょうか。危険に対処する方法は、その危険を避ける、という事がすぐ考えつく対処法の一つと思います。危険を捨てるという言い方は普通ではなく、違和感がありますが、危険を捨てると言っても危険を避けるとそれほどイメージが異ならないと思います。
罪へ誘惑する危険を避けなさい、取り除きなさいと言っているのです。
私の周りには、危険がたくさんあります。いつ躓いてもおかしくない、あるいは既に私は躓きかけているのかもしれません。しかし、主の御言葉は、その危険をできるだけ避け、危険だけを取り除くようにして教会生活を送りなさいと本日の福音書で語っているのでしょう。
子供のように幼くなり、神を頼りきる信仰を持ち、主の言葉から離れて躓く危険を避けていれば、たとえ迷い出た羊になってしまっても、神さまはその私をお捜しくださる。そう固く信じます。 |