聖霊降臨後第15主日
2005年8月28日 北尾一郎(牧師)
静かにささやく声を
列王記上19:1-21 ローマ11:13-24 マタイ14:22-33
1.「湖の上を歩く」
今日の福音書の箇所には、「湖の上を歩く」というショッキングな題がついています。そんなことが…、と思われるかもしれませんが、ここには深い意味がありますから、一息入れて、これからお話することに、あなたの耳を傾けてください。
このエピソードは、まずマルコ福音書に記録されました(6:45-52) 。そこで報告されていることは、マタイ福音書の14:22-27節に書かれている通りです。主イエスは、その日、独りになる時間を確保されました。そのために、弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先行させられます。また、あの「五千人」の群衆を解散させられます。そのようにして、やっとのことで「独りになる」ことができたのです。
福音書は、その時の主イエスがどのような思いを持っておられたかを書いていません。それは当然です。しかし、行間を読むなら、一つのことを推測することができるように思います。それは、あの「五千人」の群衆のことです。あの「給食」という奇跡的な事件は、主イエスのミッションがある種の成功を収めていることを意味しています。しかし、この群衆は、飼い主のいない羊のように打ちひしがれた群れであったと同時に、マルコ福音書によれば、100人、50人ずつまとまってスロープに座ったと言われています。それは、まかり間違えば、ナザレのイエスという旗を掲げる革命軍になりかねない群衆であったとも考えられます。
もし、事態がそのように展開するとしたら、主イエスのミッションは、その本来の目的から、決定的に逸れてしまうことになります。主イエスが、ご自分を派遣された父なる神の御心を確認するために、神の「静かにささやく声」を聴こうとされたのは、実に当然のことであったと思われます。
2.静かにささやく声
そう言えば、旧約時代の代表的な預言者であるエリヤも、同じような経験をしました。それが、今日の第一の日課の中で語られています。エリヤは、紀元前9世紀の北イスラエル王国に神によって派遣されました。時の王アハブは、フェニキアの王家と政略結婚をし、王女イゼベルを妻に迎えました。「イゼベル」とは「ゼベルはどこにいますか」という意味です(「ゼベル」とはバアルの称号で、シリアやパレスティナで信奉されていた天候と豊穣の男神てあり、「ぬし」という意味)。アハブはサマリやにバアル神殿を建て、バアルを拝みました。これは、もはや看過できない事態であり、北イスラエル王国の運命を左右する問題でありました。そのため、神はエリヤ(「私の神はヤハウェ」という意味の名前)を派遣されたわけです。
エリヤに委託られたミッションは、余りにも困難な仕事でした。カルメル山で、エリヤは独りで、バアルの預言者450人および女神アシェラの預言者400人を相手に対決し、勝利を収めますが、その後、エリヤは深いメランコリーに襲われます。それは、王妃イゼベルの脅迫がおもな原因だと思われますが、彼は「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と言うまでに落ち込みます。これは、神に忠実であればあるほど、そのミッションは困難を極めたということに、エリヤともあろう人が、ほとほと疲れたということを物語っています。いわば、エリヤの“バーンアウト”です。
そのエリヤが、どのようにして立直ったのでしょうか。列王記上19章3〜8節をごらんください。リフレッシュメント、まずは疲れを癒す食事でした。そして、神から派遣された「御使い」でした。(現代でも、そのような人と出会うことがあります。その「人」は「御使い」なのでは)。そして、何よりも「御使い」が傍に度重ねて来てくださったということが、エリヤを力づけました。四十日四十夜歩き続けて、エリヤは神の山ホレブ(=シナイ山)に着きます。洞穴で夜を過ごします。
そしてその時、エリヤは神御自身との対話に導かれます。「祈り」というべきでしょう。神が問い、エリヤが答えます。「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた」のでした。神との「出会い」です。しかし、それは、“ご対面”ではありません。むしろ、「神の御言葉」を“聴く”ことであります。
非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
エリヤも、主イエスと同様に、「静かにささやく声」に耳を傾けたのでした。これは、「細い静寂の声」という意味です。gentle
breeze という翻訳もあります。古代の人々は、シナイ山の火山活動に見られるように、風や地震や火というような現象の中に、神の顕現を見ました。その意味で、このエリヤの経験は、実に革命的であります。神の声が「細い静寂の声」であるとするならば、それは、人間の内面深くに聞こえるものです。しかし自分の声でもなく、人の声でもありません。このことは、私たちが考えている以上に、神との関係にとって、重要なことであります。
使徒パウロも、今日の第二の日課で、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(ローマ11:20)、と言います。また「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)、と語っています。
3.「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
さて、ガリラヤの湖で逆風に悩まされていた弟子たちは、夜が明けるころ、湖の上を歩いてこられた主イエスを見て、「幽霊だ」と言っておびえます。それは当然のことでしょう。しかし、そのとき、主イエスの「静かにささやく声」が聞こえたのです――「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。
マタイ福音書だけに報告されていることが、28節以下に書かれています。それは、使徒ペトロの個人的な“体験レポート”です。ペトロは、勇敢にも主に願って水の上を歩きます。その時、強い風に気がついて怖くなります。そして、沈みかけます。しかし、キリストが共におられます。すぐに手を伸ばして捕まえてくださいます。そして、ペトロは、主の「静かにささやく声」を聞くのです。
あの弟子たちと同じように、今日ここにいる私たちも、「静かにささやく声」を聞くのです。それは、吹きすざぶ“嵐”の最中、あるいはその後のことであります。 |