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説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2005年7月 ***

聖霊降臨後第11主日

2005年7月31日 北尾一郎(牧師)

エスペラント
−希望によって救われている−

マタイ13:1-9  イザヤ55:10-11  ローマ8:18-25

1.イエスさまは“種を蒔く人”のたとえを話された (マタイ13:1-9)
 ガリラヤ湖畔に集合している群衆に向かって、主イエスは、湖上の舟を説教壇にして「天の国」の福音を語られました。それは、庶民生活に密着した「たとえ」を用いた話でした。その“湖畔説教集”のトップが“種を蒔く人”のたとえです。
 まず、農夫は種を蒔いてから土を耕したということを理解しましょう、ですから、道端に落ちて鳥に食べられる種もあれば、石だらけで土の少ない所に落ちて根付かないため、芽が出ても枯れてしまう種もあります。また、茨の間にふさがれてしまう種もあります。しかし、たいていの種は良い土地に落ちて多くの実を結ぶのです。
 主イエスは、種を蒔く人が結実の希望をもって種を蒔くように、主イエスも神の国が実現するという希望をもって神の国の福音を宣教しているのだ、と言っておられるのです。神の国は、すでに始まっていますが、なおこれから実現しようとしているのです。主イエスは、御自身がいま蒔いている“御言葉の種”の多くが、必ず結実することを確信しているのだ、と語っておられるのです。

2.思えば、神さまも“種を蒔く人” (イザヤ55:10-11)
 主イエスは、預言者イザヤの言葉を、きっと覚えておられたにちがいありません。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない」。思えば、神さまも、希望をもって御言葉の“種を蒔く”方でした。それは、神さまの御性質の一つであります。

3.“種を蒔く人”は「希望する人」  (ローマ8:18-25)
 使徒パウロは書いています−「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。パウロは、被造物も、現在は虚無に服し、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっているが、解放される希望も持っている、と言います。「自然」についてのこの洞察は、比類なきものであります。さらに、キリストによる救いの約束を受けている私たちも、救いの完成の時を、心の中でうめきながら待ち望んでいる、と語ります−「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」。この言葉は、救いが「すでに起こった事実であると共に、やがて完成される希望である」という真理を表現しています。

4.「希望する人」(エスペラント) ザメンホフ
 国際語(計画言語)として 100年間実際に使われてきた「エスペラント」の聖書は、Car per espero ni estas savitaj.(=For by hope we are saved.)とこの句を翻訳しています。espero(希望)から esperanto(希望する人)という言葉が造られます。この言語は、多民族国家リトワニアのビャウィストクで生まれ、中学生の時ポーランドのワルシャワに移住したユダヤ人眼科医、ラザロ・ルドヴィーコ・ザメンホフ(1859-1917) が、1887年に「エスペラント博士」というペンネームで発表したものです。このペンネームが、のちにこの国際語の名称となります。
 少年時代、ザメンホフは、ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、リトワニア語、イディッシュ語(高地ドイツ語方言にバルト・スラヴ系の言葉が混ざった言葉で、ヘブライ文字で書く)を聞いて育ちました。少年時代のエピソードが土居智江子著『希望する人――ザメンホフ伝』には、次のように書かれています。

 ある日ルドヴィーコは、妹のサラと散歩をしていました。すると、五、六人の男の子がかけてきます。「おい、ユダヤ人のにおいがするぞ」、「こいつらは、顔は人間の顔をしているけど、本当は犬なんだって」、「しっぽがあるかもしれないぞ。さがしてみようよ」――がまんできなくなったルドヴィーコは、男の子たちにとびかかっていきましたが、はねかえされてしまいました。その子たちは、ドイツ人の子だったのです。ルドヴィーコとサラは、何もしていないのに、ユダヤ人だというだけで、いつもいじめられるのです。「ぼくは、どうしてユダヤ人なのだろう。ほかの人とどこかちがったところがあるのかしら。ぼくだって、あのドイツ人の子だって、みんな同じ人間じゃないか。…」。

 町で喧嘩をするのは、子どもたちばかりではありませんでした。大人たちも相手の話している言葉がよく解り合えないために、喧嘩をしました。それを見ていたルドヴィーコは、「大人になったら、こんな惨めなことのない世界にしてみせるぞ! それにはまず、みんなが一緒に話せて解り合える言葉があればいいなあ!」

 サメンホフは、いくつもの言語を学び、その文法の複雑さを知りました。また、現在ではどの民族も使っていないラテン語に“国際語”創案の可能性を見たり、英語を学んだとき、その文法が簡単であることを知り、だれにでも覚えられる、易しい国際語を造る努力を続けたのでした。
 これがエスペラント誕生の原点でありました。ザメンホフは、民族や言語や宗教やイデオロギーや社会階層による人間の抑圧を、野蛮行為と弾じました。そして、「人類人主義」(1913)にたどり着きます。、
 1905年に第1回世界エスペラント大会が開かれました。エスペラント運動は今年で 100年になります。現在、世界には、100万人の「エスペランティスト」(エスペラントを話す人)がいるそうです。(2007年には横浜で世界大会が開かれます)。

5.「希望する人」になろう
 私たちは、「エスペランティスト」にならなくてもいいでしょう。しかし、聖書は、私たちが「希望する人」(エスペラント)になるようにと、強く勧めています。なぜなら、私たちは、「希望によって救われている」からです。パウロは言います――「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ 5:3、4)。
 これは、新しい生き方への招きです。主イエスが「希望する人」であることから出てくる福音です。絶望の十字架を通して明らかにされる復活の希望です。

 

聖霊降臨後第9主日

2005年7月17日 北尾一郎(牧師)

苦難を越えて
−永遠の命への招待−

エレミヤ28:5-9  ローマ6:15-23  マタイ10:34-42

1.主イエスの歴史認識
 今日の福音書の日課はとてもショッキングです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」――私たちは、クリスマスに生まれた幼子を“平和のプリンス”として喜び迎えたのではなかったでしょうか。しかし、十字架の出来事が、雄弁に語っているように、この世界は、「平和の君」を受け入れませんでした。それだけでなく、十字架のキリストこそ世界の救い主であると証言する弟子たちを、いろいろな場面で弾圧し、迫害したのです。主イエスの言葉は、この迫害を予告し、そのような時代を乗り越えていくための心構え(指図→11:1)を与えているのです。
 社会が腐敗し、国家が混乱する時代には、「自分の家族の者が敵となる」(10:36) という終末的な状況になるものです。紀元前8世紀の末葉、ミカという人物がおりました。彼はイザヤやホセアと同時代に活動した印象的な預言者でした。国際情勢の激動の中で、社会の腐敗と混乱の中で、ミカは語ります――「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。…息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ 7:5、6)。主イエスは、ミカの預言の言葉を引用されたのです。つまり、主イエスの“歴史認識”です。

2.苦難を越えて
 終末的な状況においては、家族も混乱します。そのようなとき、「わたしよりも(混乱している)父や母(息子や娘)を愛する者は、わたしにふさわしくない」と主イエスは言われます。「主キリストへの服従」ということは、何よりも主の御心を優先させるということです。それは、まさに「十字架を担う」ことであります。家族への愛と主への愛とがぶつかって交差する、それが十字架ではないでしょうか。
 預言者エレミヤも、亡国という最も危機的な状況の中で“十字架”を担いました。彼の場合、十字架は「軛」(クビキ)でした。神の命令によってエレミヤは、横木と綱を首にはめました(27:2)。この軛は、当時の超大国バビロンのネブカドネツァルによる世界制覇を象徴していました。エレミヤは、属国になったとしてもバビロンを相手に戦争をしてはならない、という神の言葉を告げ知らせたのでした。しかし、ハナンヤという偽預言者が、エレミヤに反対し、二年のうちに神はバビロン王の軛を打ち砕き、捕囚の民とバビロンに持ち去られたエルサレム神殿の祭具は戻ってくると主張したのです。ハナンヤは正しい歴史認識に欠けていました。バビロンは、木の軛を鉄の軛に変えました(28:14) 。それは2年ではなく、70年続いたのです。

3.永遠の命への招待
 パウロも今日の使徒書の箇所で「軛」の話をします。それは「奴隷」の軛です。人は“罪殿”の奴隷となるか、神の奴隷となるか、どちらかであるというのです。“罪殿”は、その奴隷に対して「報酬」を支払います。それは、「死」です。しかし、神は、義の奴隷に対して、「報酬」ではなく「賜物」を与えられます・それは、「永遠の命」です。それは、人間の働き・功績に対する「報酬」ではありません。キリストの働き・功績を担保とする「恵みの賜物」であります。これが福音です。

 

聖霊降臨後第8主日

2005年7月10日 北尾一郎(牧師)

神の勝ち、私の負け
−涙の人の告白−

エレミヤ20:7-13  ローマ6:1-11  マタイ10:16-33

1.世界に派遣される者は迫害される
 今日の福音書は、先週の日課の続きです。先週、私たちは「ミッション」について考えました。ミッションは「神の宣教」であること、そして、「打ちひしがれている人々をはらわたを突き動かされたキリストの御心」にミッションの源泉があること、また十二弟子を派遣されたキリストは今、「働き手」(信徒・教職)として私たちを「世界」に派遣しておられること、を学びました。
 さて、今日の福音書には、弟子たちがこの「世界」に派遣されるとき何が起こるかについて主イエスが語られた言葉をまとめると、次のようになります。

・弱者にそなわる、蛇のような感性するどく、鳩のよう率直に行動せよ。
・弾圧は福音を世に証しするよい機会である。
・最後までめげずに、小さくされた者の側に立ちつづけよ。
・引くときには引いて、ねばりづよく宣教せよ。
・主イエスよりもうまくやろうと思うな。弾圧があって当然と思え。
・弾圧してくる人々を恐れるな。
・小さくされた人たちは、神がその側に立っておられる。

2.預言者エレミヤの場合も
 今日の第一の日課には、「エレミヤの告白」という題がつけられています。これは、神の民イスラエルの歴史が“バビロン捕囚”という大きな曲角にさしかかっていた紀元前7世紀から6世紀にかけて活躍し、「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤの“肉声”であります。彼は若き日に、神の召命を受けます。エレミヤは、民族の悲劇を予告すると共に、モーセの十戒の精神に立ち帰るよう民族ぐるみの悔い改めを迫ります。そのために、いたるところで彼は迫害されます。
 エレミヤは、悩みます。「母の胎から生まれる前に」エレミヤを選び、預言者とされたのは、神御自身ではないのか、それなのに、神は助けてくださらない、神はわたしを“だました”のであろうか、そのような思いの中で、エレミヤは、率直に神御自身に向かって訴えます−「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。・・・わたしの負けです」。
 「しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます」。神の勝利こそ、実は、彼の勝利であることに エレミヤは気づきます。そのために、彼は告白するのです−「わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします」。

3.神の勝利に与ることが、私たちの救い−「洗礼」の意味
 人間にとって、この地上の生活は、矛盾に満ちています。正当な理由もなく勝ち組・負け組が生まれます。とにかく「勝つ」者だけが救われるのか。そうではない、と今日の第二の日課は言います−「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマ6:8)。それが「洗礼」です。

 

聖霊降臨後第7主日

2005年7月3日 北尾一郎(牧師)

キリストの御心から
−ミッションとは何か−

出エジプト19:1-8a  ローマ5:12-15  マタイ9:35-10:15

1.ミッションとは
 「ミッション・スクール」と言えば何のことか、ほとんどの人が理解しています。宣教師の団体を指して「ミッション」と呼ぶこともあります。では、「ミッション」という言葉のルーツはどこにあるのでしょうか。それは、今日の福音書にあります。
 十二人の弟子たちの派遣−これが「ミッション」の原型です。主イエスは弟子たちに言われました−「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい」。この「送る」という言葉のラテン語が、mitto という動詞です。それを名詞にすると missio となります。働き手を「送る」のは「収穫の主」である神御自身であり、この収穫は神御自身の働きです。ミッションは基本的には「神御自身のミッション」(Missio Dei)であります。

2.なぜ十二人か
 最初のミッションは、十二人の弟子団でした。全人類の祝福の源となるために召し出された「神の民」イスラエルは、十二部族から成っていました。今日の第一の日課には、イスラエルの民がエジプトを出て三月目に、シナイの山でモーセが神から十戒を与えられる前に受けた「神の契約の言葉」が書かれています。「もしわたしの契約を守るならば、あなたたちは、わたしにとって“祭司の国”“聖なる国民”となる」というのです。神によって全人類に派遣される「祭司」となるのです。
 キリスト教会は、“新しいイスラエル”として神によって全世界に派遣されます。ですからキリスト教会の基礎となる人々も、十二人でなければなしませんでした。そして「十二人」の基本的性格は、「遣わされる者」(使徒)である、ということにあります。キリストによって派遣される人々の集団−それが「ミッション」です。
 ミッションは、派遣する方からのメッセージを伝える、という「任務」を与えられています。そのメッセージの第1点は、「天の国は近づいた」という福音です。「天の国」は、「神の国」・「神の支配」のことです。「永遠の命」とも言えます。第2点は、「平和があるように」(シャーローム)という挨拶です。この挨拶には“中身”があります。キリストによる神からの「平和」(傷ついた部分のない状態=本田訳見出し)が人間を救います。世界に希望を与えます。今日の第二の日課で「もう一人の使徒」パウロは、「恵み」が「義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」と宣言しています。

3.ミッションの源泉は
 しかし、今日の日課で、何よりも大切なポイントは、「キリストの御心」にあります。「神のミッション」は、具体的な源泉を持っております。それは、マタイ福音書9章36節です−「イエスは・・・群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て(むしりとられ=本田訳)、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(はらわたをつき動かされた=本田訳)」。ミッション、教会の宣教には、方策も必要であり、最小限の費用も必要であります。しかし、何よりも、このキリストの御心に共鳴する素朴なひたむきな思いを持った「働き手」(信徒/教職)が必要なのです。

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